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2012年7月 4日 (水)

悟るとは信じ切ること

悟るってなんだろう?

悟るまでの過程には、必ず苦しみもがく心の起伏がある。そして、その過程を経なければ、絶対に悟ることはできない。

私は師匠によく言われる。

「神を信じ切りなさい」と。

確かに私は今まで神様を信じてきた。

しかし、信じ切れていたかは部分部分でしかなかったのかも知れない。

信じ切るとは一体どういうことかと考えた時に、

そうか、悟ることなんだ、と思った。

悟った時の感覚は、とてもまっさらで清々しくて、腑に落ちて、つまり無心の状態に同義である。

本当に苦しい感情を味わい尽くした後に、

やりきったんだからこれでいいんだ、結果がどうであったかにかかわらず、私は本当にこのあるがままの姿で神に認められているのだ、という”空”で満たされた感覚がやってくる。

それが、信じ切ることなのだ、と思った。

そう、”結果”はどうだっていいのだ。結果に捉われているうちは神を信じ切ったとはお世辞にも言えないのである。

それはつまり、もがき苦しむ感覚は結果を氣にしてこそ表れてくる感覚だからである。

最初から”目に見える結果”という呪縛があるからこそ、人は苦しむのだから。

そして苦しんでいるうちは、まだ”神様を信じている”というレベルにしか過ぎない。


悟りとは、人生の中においてあらゆる局面で表されていくものである。決して聖者が修行して得た時の感覚だけのものではない。

日常的にも悟りの感覚はいくらでも味わうことができる。

掃除をやり切った時。

一つのアートを完成させた時。

人間関係で悩み抜いた後。

病気を克服した時。

本を読破した時。

締切のぎりぎりの時間まで仕事を夢中でやった時。

久々に大ゲンカをした後。

そして死ぬ覚悟が決まった時…。

いつどんな場面においても、悟ろうとしているのか?

つまり信じ切ろうとして行っているのか?

私が勉強しているのは、つまりそのことであった。

ただ本を読み終えたのでは悟ったとはいえない。

ただ掃除をし終えたのでは悟ったとはいえない。

本をちゃんと読んでちゃんと理解できたと思えた時、初めて悟れるのだ。

床を納得がいくまでぴかぴかにして、これ以上キレイにできないと思えるくらい掃除したと思えた時に、初めて悟れるのだ。

今勉強している靈氣道は、正にこのことであった。


私には”信じる”を超えた”信じ切る”氣持ちが今こそ必要な時だと分かった。

そして今、苦しくてもがいている自分をようやっと超え始めたという感覚がある。

人は自分自身の人生を歩むことに関しては、どうしたって、予めプログラムしておいたプロセスを体験を通してしか実感できないようにできている。

だから、直観ではこうなるとは感じていても、実際に体験をしてもがき苦しまなければ直観の通りであったと実感できないし、絶対に次のステップに行くことはできないのである。

今の私の苦しみは、それをしっかり体感して知り尽くす為に必要な過程だったとよくよく分かった。

今回の悟りは私にとって大きな意味をもたらしたと思う。

今は今のこの自分を愛そう。自分をしっかり愛でる時期にきたのだ。

そしたらまた何かが変わっていくのだろう。

もちろん、また苦しまなければならない時期が訪れるだろうということもよくよく感じている。

でもその苦しみはおそらく今味わっている苦しみとはまた違う種類のものになるのだろう。

もし同じ種類の苦しみが訪れるのだとしたら、その苦しみは少なくとも今回の苦しみよりは穏やかになるだろう。

既に一度体験したのだから。

こうして少しずつ苦しみが穏やかになっていき、最終的にはいつでも無心の状態でいられるようになればこそ、それは聖者が修行した後の所謂”悟りの境地”に行きつくことができるのだと思う。

信じ切る為にはもがき苦しむプロセスを踏まなければならない。

しかし信じ切れた道には必ず光が差し込むのである。

その道こそ神が指し示す道なのである。


小さなことからコツコツと悟っていく。

それが”行”なのである。

合掌。

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