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2011年5月27日 (金)

”コントロールしない”こと

私にとってこの1年は、以前にも書いたように、大変化の年である。子供を幼稚園に入れたことで、自分自身の生活も一転し、新しい氣持ちで今までの氣付きをベースに、毅然と前進していく年である。

しかし、そうと思っていながらできていない事が一点あることにまた氣付いてしまった。

それは、自分の思い通りにしようとするあまり、そこに思考が入っていた、ということである。それはつまり、思い通りにしようと思って周囲をコントロールしようと躍起になることである。

私が勉強を続けている靈氣の奥義は、正に、”自然に”ということである。

つまり、靈氣で相手を動かしたり転がしたりなどという勉強をしているのだが、そこに思考や念が入っていると、却って相手を思うように動かしたり転がしたりすることが困難になるのだ。

だから、靈氣を使って相手を自分の思う通りに動かしたり転がしたいのであれば、そこに思考や念を入れないということになる。

つまり、全ては直観であり、言い換えれば”タイミング”なのだ、ということである。

この靈氣の奥義に則した在り方は、本当に自分が思った通りの生き方をしていこうと思うのならば、思考や念を捨てる、ということである。

今、自分が靈氣の勉強をしてきて、それがせっかく板についてきたところなのに、それを生活に上手く活かせていないではないか、ということに氣付いて、また反省したところである。


本当に自分の今の思いを現実化したいと思った時に、じゃあ具体的にどうすればよいのか。

まず、こうしたい、ああしたい、こうなりたい、ああなりたい、という自分を強くイメージする。

その後、それを現実化する為に必要だと心が思った事を行う。

行っていくうちに、必ず岐路に立たされる時が来ると思うので、そこで、今度はこっちに行こう、こうしてみよう、と心が感じた事を新たに行う。

その都度その都度、直観が全てである。

軌道修正がやってくる時が来るのも、またタイミングであり、自分にとって必要な試練である。

しかし、以前にも書いた通り、乗り越えられない試練は絶対にやってこない。

乗り越えようと思う前に諦めたら、その時点で至福に辿り着くことは不可能である。

とにかくなるべく立ち往生する時間をかけずに、機会を得た時にえんやとばかりその波に乗っていくことが、一番無理なくスムーズに思いを現実化するポイントである。

仮にもし、どんなに努力しても、必要な事を全てやってみても、思いを現実化することができないのであれば、その思いは、神様の意向に反したものであったと考えればいいだけのこと。

私達は、創造主のてのひらの上で遊ばせてもらっている”光=エネルギー体”なのだ。

創造主である神の思った事を現実化させる為に、今ここに生かされているのである。

神は、この地上が愛でいっぱいになることをお望みである。

それは、神が愛そのものだから。

愛とは、以前にもしつこく書いてきたように、自然そのものである。

だから、目の前にやってきた試練を、或いは自分がこうしたいと強く思った事を、自然に自然にクリアしていけば、どんどん愛に近付いて、最後には完全に”愛=自然”に返ることができるのである。


もしあなたが今、窮地に立たされていたり、大きな悩みを抱えていたりするのであれば、まず考えることをやめることである。考えることをやめて、私はこうなりたいんだ、ああなりたいんだ、と強く思った後に、すっかり心を空っぽにすれば、その中に宇宙からのメッセージが降りてくる。そのメッセージを受け取ることそのものが、直観である。
そして、その直観に従って実践していけば、その試練を乗り越えることができる。

その直観は、直接心にメッセージが降りる場合もあれば、ふと何気なく見た周辺の広告物や、空や、時計や、人や、新聞や、テレビや、或いは睡眠中の夢の中などに降りてくる場合もある。それを見逃さないでしっかり捉えようとする氣持ちを持てるようにすることが、直観力を鍛えることそのものである。そんなの氣のせいだ、と思ったらそれで終わりである。とにかく神様はあらゆる空間にメッセージを散りばめておいて下さっている。それをどれだけ掴まえて、それをどれだけ実行に移したか、が私達のライフワークの全てなのである。


”コントロールする”ということは具体的に言えばどういうことか。
例えば相手をコントロールしようとした場合、そのコントロールが仮に成功したとすると、今度は自分が相手にコントロールされる時が必ずやってきてしまうのである。
それはつまり、念である。お互いに念のキャッチボールをしているに過ぎないのである。
念のキャッチボールをしているとしたら、そのキャッチボールはどんどんお互いを苦しめる。
コントロールしようとする思いには、必ず私利私欲が混じっているからである。

純粋な氣持ちの中には、コントロールしてやろうというようなエゴは微塵も入っていない。

ただただ純粋に、心がそう思っているのである。

その純粋な思いを成就したければ、相手や周囲のあらゆる物を、コントロールしようとすることは絶対にない。

もし、純粋な思いの中にも、焦りや不安が募って、思わずコントロールしてしまうような感覚を持ってしまったら、また、その感覚が自分を苦しめていると感じたならば、一度その感覚を捨てるしかない。素に戻ることである。それは、言い換えれば、執着を捨てるということに同じである。

執着して良い事は一つもない。執着すればする程、相手もしくは対象物に逃げられる。


例えば、純粋に、一人のアーティストを好きだと思って、その人の作品に親しんでいた場合には、ふと何気なく振り向いたところに、そのアーティストの情報が載っている広告を見つけたり、或いは偶然テレビに映っているのを発見したりするものである。もし純粋に、そのアーティストに会いたいと思っていたら、きっと会うことができるだろう。

少し前に、とある番組で、私の隠れファンである須藤元気が、

「○○(外国の有名俳優)の大ファンで、イギリス行ったら何故か絶対に会えるって思ったんですよ。そして実際にイギリスに行ったら本当に道端でばったりと会うことができたんです。でももっとびっくりしたのは○○の方だったみたいで、○○に『お前が昨晩夢に出てきたんだよ!!』と言われたんです」

と言っているのを介護の職場のテレビで偶然見て、これも私にとって必要なメッセージとして見せられたのだな、と思った。

もし、須藤元気のように、”何故か○○に絶対会えると感じる”と言えるほどの強い思いが現れなければ、きっとあなたは○○に会うことはないだろう。それは、須藤元気と○○の波動が同じだったから強い思いが湧いて会えたのである。もっと言えば、須藤元気が事前に○○に会うという信号をキャッチしていたということである。そして○○も須藤元気を夢で見ることによって相手の波動をキャッチしていたのである。

言い換えれば、”強い思いが湧く”ということは、それだけ相手の強い思いや波動をキャッチしているという事に同じである。

何故だか知らないけど、とにかくあの人と連絡が取りたくなってきた、と思った時は、実際に相手もあなたと連絡が取りたいと思っていることに同じなのである。

これを恋愛に活かすなら、相手の事が何故だかとても氣になる、とか、好きだと思える、とか思った時は、実際に相手もあなたの事を意識しているのである。

でもそれを、自分の一方的な思いに過ぎない、と深く遠慮してしまったら、それ以上の進展はありえず、そこで終わってしまう。

ただ、思いと言葉がうらはらなのは3次元世界に洗脳されている人にはよくある事なので、じゃあ両想いな筈だと思って実際に告白したらふられてしまったという事もよくある話ではある。
Σ(;・∀・)

思わず恋愛のことまで書いてしまったが、これにはまだいろいろ書けることもあるので、氣が向いたら書きたいと思う(*´σー`)

今回は、ちょっと間延びした内容になってしまったが、私の言わんとすることは、分かってもらえただろうか・・・。


”コントロールしない”こと。

執着しないこと。

考えないこと。

不安にならないこと。

焦らないこと。

これが靈氣の奥義であり、至福への鍵である。

自然に返れ。全ての感覚を自然にせよ。

全てが自然なのである。

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